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  このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」という本の中から隔週ひとつづつ紹介していくページです。
|悲しい歴史を伝える二つの灌漑用溜池|
自然・風景
Vol.10
吉ヶ谷堤
▼大牟田市大字上内吉ヶ谷▼JR大牟田駅から西鉄バスで上内小学校前下車。上内八幡神社の先を左に入り、約2キロの距離にある

  吉ヶ谷堤は吉ヶ谷池とも呼ばれ、また、吉ヶ浦堤(吉ヶ浦池)とも呼ばれている。この灌漑用溜池は大牟田市大字上内にあり、三池郡高田町との境近くに位置しており、白銀川の水源となっている。この溜池は二つある。上の溜池を第一堤、下の溜池を第二堤と呼ぶことにする。この二つの溜池は立花内膳家の第六代寿ュ(ひさとみ)の時に築造されていた。
 この上内の池は、肥後南関に対する柳河藩の砦の役割を果たしていた。柳河藩祖である立花宗茂は、その甥にあたる立花政俊(実父は直次、実兄・種次は三池藩の初代藩主、実弟・忠茂は二代柳河藩主)に上内の千石の知行地を与えていた。
 吉ヶ浦堤の第一堤は1803(享和3)年に竣工しており、標高89メートル、面積は6.4ヘクタール、貯水量は約25万立方メートル、最大水深は11メートルである。その500メートル下流の第二堤は1805(文化2)年に竣工されており、標高63メートル、面積は1.1ヘクタール、最大水深は7メートルである。136ある大牟田市内の溜池の中で最大のものである。
 この吉ヶ谷堤には、寿ュの妻である栄徳院(松姫)が建立した「妙経一字一石塔」がある。碑の正面には「南無妙法蓮華経奉写華経一字一石塔」、西側面には「維持文政第十亥歳九月如意日建立之塔 国家安全五穀豊穣武運長久 立花内膳種博 母栄徳院 敬書之」とある。
1827(文政10)年に建立されたものである。寿ュは1825年9月19日に64歳で死去しており、立花内膳家7代種博の時代であった。
 灌漑用溜池の建設はこの地方での悲願であった。立花内膳家第4代の種命(たねよし)の時の1728(享保13)年には百姓一揆が起きている。その原因は旱魃にあった。「逃散(ちょうさん)」という形の百姓一揆であった。このことについて柳河藩の記録には、「申十一月二十八日、百姓百三捨八人家内妻子ともに総数六百人余上内村を立退隣郷細川越中守領肥後国南関と申所江追々罷越候」とある。
 柳河藩では幕府の斡旋を受け、肥後藩の協力を得てこの逃散した農民を連れ帰り、そのリーダー13人を、幕府の許可を得て、1729(享保14)年9月26日の地蔵寺跡で死刑した。この供養塔である「妙経一字一石塔」が、白銀川の上内峠側の支流である汐井川の谷に面して建立されている。この供養塔は、立花種命(内膳家4代)の妻であり、種房(5代)の実母である現成院(那留)を願主としている。
 吉ヶ谷堤の建設には以上のような悲しい歴史があった。この溜池を建設した寿ュは、1729年9月に百姓一揆のリーダーを処刑した種命と上内峠の百姓一揆塔供養塔を建立した現成院の孫にあたっている。
 白銀川は大牟田市北部の水田地帯で、奈良時代の条里制の遺構もみられるという。この川は手鎌で有明海に注いでいる。
 この水利権は江戸時代から戦前までは土俵によってなされていた。その井堰の高さは何尺何寸で土俵数は何俵と決められていた。
 


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