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大牟田市の北部に位置する甘木山から市内を展望すると、西に延々と広がる有明海、その向うには長崎県の多良岳、1991年に噴火し、度重なる火砕流で貴い命を奪う大惨事を引き起こした普賢岳を背景に、市内各所にそびえ立つ煙突の元には、石炭で一時代上げた三井関連企業群を一望することができる。
この光景の中でひときわ目を引くもの、それは、碁盤目状に区画割りされ、四季折々にその姿を変え、人々の心を和ませてくれる昭和開、明治開など有明海を干拓化し造成された干拓の農地である。
本市の干拓については、これまでにさまざまな角度から研究されてきた経過はあるものの、その実体は明らかではなく、現存する文書・記録などにより実体を究明するより方法がないようである。
まず、海岸線はどのように変化してきたのだろうか。地質時代に、数回の地盤の隆起、沈降が繰り返され、第三紀末には、甘木山や四ッ山は島であり、稲荷山、高取山、三塚山などを中心とした丘陵地帯は高地であった。現在の白銀川や諏訪川の主要河川の沖積平野はまだなく、大牟田市は山岳地のみであったと推測される。
その後は、日本有数の潮汐の干満差がある有明海の特製と、干拓を行うのに最も重要な条件である遠浅の海岸を兼ね合わせ、また、有明海に注ぎ込む大小の河川が運搬する砂泥の推積で、海岸線の後退を繰り返すことにより陸地化し、さらに、人が海に堤防を築き水を塞き止め、干陸化する干拓や埋立により、現在の海岸線が形成されたのである。干拓が本格的に盛んとなったのは明治期以降で、現在も干拓本来の目的をにない農業生産の場として残っているのは明治開、深倉開、有明開、昭和開などである。
その中でも昭和開の三池干拓事業は、戦後の食糧事情が逼迫する中で、主要食糧の増産運動と、一区画二ヘクタールの大区画圃場に大型農業機械の導入による作業の効率化を目指し、国営干拓事業として1952年に着工し、幾多の困難を克服し、1963年6月潮止めに成功、1967年9月、約15年の歳月と27億円の巨額を投じて完成している。
その後、五カ年間の県営圃場整備を実施し約350ヘクタール(大牟田区約188ヘクタール)の農地が完成した。ここではパイロット事業として、先進的な営農が実践され、麦作日本一の栄誉に輝いたこともある。
このように、干拓はその時代の流れとともに築き上げられ、その機能を充分に発揮し、自然との調和が図られてきたものであるが、近年の農業を取り巻く情勢は、農産物輸入自由化による農産物の価格低迷、農業の担い手不足などで非常に厳しい状況下にあり、これまで維持され続けてきた農業生産の場としての機能が、今後も保たれるのかが心配である。
しかし、現在まで行われてきた干拓事業が社会経済の発展に及ぼしてきた影響は多大なものがあり、先人たちの発想と努力に対し、ただ脱帽するのみであり、今後も大牟田に住み続ける私達がこの干拓を守り、育んでいかなければならないと思う。
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