TOP >> おおむたの宝もの100選

  このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」という本の中から隔週ひとつづつ紹介していくページです。
|半世紀近い歴史をもつグラウンド|
建物
Vol.27
延命球場
▼大牟田市原山町200▼JR大牟田駅から南東に約800メートル。西鉄バスは警察署カルタ館前下車、徒歩5分
▼8時30分〜17時▼有料▼電話0944(53)6003
 大牟田市延命球場は、その開設の時から小・中学生の憧れのグラウンドであり、高校生・社会人の野球人生の檜舞台として熱いドラマを繰り広げてきた。
 1945年から60年頃までの戦後復興期に石炭・化学産業を中心として日本経済興隆の礎となって発展してきた大牟田市でも、市民生活に活力を与えた野球文化が華やかに展開された。 当時、現在の市民体育館の位置にあった「延命球場」は、プロ野球を誘致、開催していたが、とても狭く、施設の整備状況は決して十分ではなかった。
 1957年に市制40周年を記念した大牟田産業科学大博覧会が開催され、球場用地をその会場として使用することになったため、球場を解体、移転させることとなった。
 現在地を整備し、本格的な球場の建設が開始され、両翼約95メートル、センター約120メートルの新しい延命球場が完成した。
 社会人野球として各事業所の野球部(軟式)も対抗試合などを活発に行い、市の球界を代表するノンプロの強豪であった東洋高圧野球部が延命球場をホームグラウンドとし、当時、プロ野球の地元球団であった西鉄ライオンズの田中選手、小渕選手はじめ多くのプロ野球選手を輩出した時期もあった。
 大牟田の高校野球も、当時、互いに競い合って強豪といわれていた三池工業、大牟田南、三池を中心に市内リーグ戦を行い、市内の高校球児として育った龍選手(広島)、苑田選手(広島)などがプロ野球界で活躍するようになった。
 1965年、原貢監督率いる三池工業が、夏の全国高校野球選手権大会の地区大会の初戦をこの延命球場で勝利し、全国の強豪を次々と撃破、全国制覇を果たして深紅の大優勝旗をふるさとに持ち帰り、大牟田市の沈滞ムードを一気に明るくし、元気づけてくれた。
 この時の優勝投手の上田選手(阪神、のち南海)をはじめ、立花選手(西武)、真弓選手(阪神)がプロ野球の中心選手として活躍し、「延命球場が野球人生の原点であり、球場に育ててもらった」という村上選手(近鉄、のち西武)、中村選手(ダイエー)たちがこの球場で育っている。
 球場を開設して年月が経過し、老朽化が進むうちに防球ネットが破損し、本部席建物などが倒壊した。
 21世紀を迎えるにあたり、2001年3月に内野スタンドを中心に改修された。内野スタンド収容1272席、本部室、放送室、医務室、シャワー・更衣室、屋内ブルペン、サブスコアボードなどが新設され、防球ネット可動式・最高部35メートルに改修し、駐車場を増設(91台収容)、周辺道路の整備を図った。
 2001年5月には、NHK杯福岡県選抜高校野球大会、7月には第82回全国高等学校野球選手権大会が開催されることで、延命球場が熱くよみがえった。 


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