| TOP >> おおむたの宝もの100選 |
| このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」という本の中から隔週ひとつづつ紹介していくページです。 | |
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|1919年、全国に先駆けて行われた大牟田の水道整備|
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Vol.30
水道局四ッ山配水地 |
▼荒尾市大字大島▼第1・2配水地とも、水道施設につき立入禁止となっている▼照会先=大牟田市水道局総務課企画担当 0944-41-2840
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| 四ッ山の上から炭鉱の発展と衰退の歴史を見守ってきた四ッ山第1配水池は、四ッ山神社西隣の山上にある。眼下には旧四山坑・四山住宅を見晴らす。 現在は、四山坑も取り壊され、石炭の山々もすっかり消え、いまだ黒く見える荒地が広がっている。時代が変わった象徴として、JAの石油備蓄基地のタンク郡が北方、右手のほうに見える。 大牟田の水道の歴史は、全国的にみてもかなり古いほうである。それは街自体が石炭産業の発展に伴って形成され、人口の増加とともに水道が必要になったという経緯があるからである。このことは水道の仕切弁1つ見ても、現在主流の右回し閉めではなく逆回しになっていることからも窺える。ちなみにこの逆ネジを使っても水の供給に問題がないことは、やはり古くから創設された水道の代表都市である東京都などが同じ方式であることからも分かる。 当時、新技術は英、米、独、仏の各国から導入され、その導入先の国によって規格が違っていたのである。日本では電気の周波数が50ヘルツと60ヘルツに2分されているが、これも英、仏から技術を導入した経緯によるものである。 四ッ山第1配水池は、このように水道の技術経験者の少ない時代のものであり、ドイツ人技師による設計であった。アーチ構造の無筋コンクリート構造物であり、容量は3500立方メートル。道も狭く、人しか通れない山の上に、当時としては超巨大な構造物を造るため、資材の運搬はすべての人肩に頼った運んだであろうことを考えると、とてつもない工事であった。 ドイツ語で書かれた設計図は現在では見つからないが、その後建設された四ッ山第2配水池(四ッ山神社の裏手にある)の設計図は、英語で書かれている。後発で水道が整備された他都市では、外国人に設計を依頼した配水池はめったにないのではなかろうか。 四ッ山第1配水池は1919年3月に起工し、1925年3月に竣工、前記の清里水源まで含めて総工費は176万円であった。 写真にある「大牟田市上水道記念碑」は後に建てられたもので、四ッ山第2配水池にあるが、水道創設を記念したものである。その碑の下方には龍の頭をした蛇口がある。今でも使う「蛇口」は初期には蛇の口をしていたものがあったので、このように命名されたようである。実際は蛇ではなく龍だったのかもしれないが、そこから水が出ていた。水道はそんなにもありがたいものであったと思われる。そんなロマンをかきたてる蛇口である。 水道局では平成3年に水道創設70周年を記念して「いのちの水70年 大牟田市水道記念誌」を発行しているので参考にしていただきたい。 |