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  このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」という本の中から隔週ひとつづつ紹介していくページです。
|戦後復興を支え、「三池争議」の舞台ともなった歴史遺産|
炭鉱
Vol.40
三川坑跡
▼大牟田市西港町2−30▼西鉄大牟田駅から西鉄バス三川町1丁目下車▼三井石炭鉱業(株)三池事務所▼敷地内は非公開
 三池炭鉱といえば全国にその名を轟かせたわが国を代表する炭鉱であるが、その三池炭鉱を構成する数ある坑口の中で、あらゆる意味でもっとも有名なのがこの三川坑であろう。
 それは、太平洋戦争終結後に全国を巡幸中の昭和天皇のご入坑をを得た名誉の記憶からであり、戦後復興を支えるために多くの石炭を生産した栄光の記録からでもあるが、反面、「総資本対総労働」が激突した三池争議の主要な舞台となった血塗られたイメージからであり、志望者458名を出した戦後最大の炭鉱事故の不幸な事実からでもある。
 三川坑は2つの斜坑からなる。第1斜坑、第2斜坑ともに幅約6メートル、高さ3.3メートルのアーチ型で、長さ2キロ以上という規模の大きさから特に「大斜坑」と呼ばれる。2つの斜坑は、東から西へ平行に、有明海の海底に向って掘られ、傾斜は約11度である。1937年に工事開始され、1940年に完成した。三池港の東に接する場所、三井港倶楽部のすぐ裏にあたるが、元は炭鉱住宅が立ち並んでいた場所である。
 三川坑が造られたのは、日中戦争が太平洋戦争、第二次世界大戦へと移行拡大の兆しを見せ、戦争遂行のため石炭の増産が求められていた時期であった。戦時下においては、人員も物資も不足していたが、戦後の復興期における傾斜生産方式で、優先的に資本の投入がなされ、三井鉱山の最主力坑として活躍した。
 1949年の昭和天皇ご入坑時は、本物の切羽(採掘現場)まで至る途中の、より安全な場所に切羽風の場所をしつらえて、陛下に石炭採掘作業を模擬的に体験していただいたので、その後その場所を「天皇切羽」と呼んだそうである。
 1960年の三池争議は、生産効率化と高炭価是正を迫られて会社(三井鉱山)側が合理化を断行しようとしたことに端を発した、わが国労働史上最大の争議である。
 1963年尾炭塵爆発事故は、あまたの死亡者を出しただけでなく、その後もさらに多くの人がCO(一酸化炭素)中毒の後遺症に長年苦しんできた不幸な歴史がある。
 どちらかといえば、暗いマイナスの印象で語られることの多い三川坑であるが、ここに投入され、ここで培われ、現在多方面に応用されているきわめて優秀な数々の技術が、市民にはほとんど知られておらず、誇るべき文化遺産として認識が希薄であるのが残念と言うほかない。
 三川坑は、1997年3月の三池炭鉱閉山以降も坑口は閉鎖されず、地下水位の状況を点検するため少人数ながら鉱員さんが出入りされていたが、敷地内の多くの建物は取り壊され、残る建物もほとんど手入されない状態で解体の時を待っている。
 重要な近代化遺産の1つとされているにも拘わらず、文化財としての指定や登録はまだ受けておらず、最後の役目を終えて、坑口が閉鎖され、跡形もなく消滅するおそれすらある。


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