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     炭鉱

    vol.47 旧三池集治監

    甲子園球児を見守った明治の赤れんが塀

     上官町は今、区画整理工事が盛んに行われており、美しく整備された街路や街並みが近く完成するであろうが、その途中に、福岡県立三池工業高校がある。
     この高校の外塀の東側と西側は、高等学校の塀としてはいささか古風で、なおかつ高さがあまりにも高く、頑丈である。これは何も、生徒が授業をサボって抜け出すのを防止するために、そのような構造になっているのではなく、実はここがかつて刑務所だったからである。
     この土地が学校として利用されるようになったのは1935年からであるが、その前、1931年までは、三池刑務所というれっきとした刑務所が置かれていたのである。ここの刑務所の歴史は、1883年に三池集治監が設置されたのにさかのぼる。
     その当時、明治の初めの頃は、犯罪者に懲役刑を執行する施設としては、各県が設置していた「監獄」と、政府(内務省)直轄の集治監があった。
     三池炭鉱は1873年から1888年まで官営(国営)鉱山であったが、その初期から採炭作業に囚人を使役することが行われてきた。当初は、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県の他、現在は福岡県の一部である三潴県など、各県の監獄から三池に派遣された囚人が投入されていたが、これに2千名規模の収容能力をもつ集治監が加わり、囚人鉱夫による採掘がゆり大々的に行われるようになったのである。
     その後、明治の終わり頃、監獄の所管が国に一本化されたのにともなって、三池集治監という名称も三池監獄と改められ、1922年には三池刑務所となった。
     三池炭鉱における囚人労働は1889年に三井に払い下げられた後も引き継がれ、1931年に停止されるまで継続した。炭鉱における囚人労働の停止とともに、三池刑務所も廃庁された。跡地には、それまで亀谷町にあった三井工業高校が移転してきた。この時、ほとんどの刑務所施設は解体撤去されたが、わずかに残されたのが、外塀と石垣、地下通路の入口などであった。
    外塀は、赤レンガをイギリス積みして築かれ、高さは約5メートルである。塀の厚みは基部が約70センチと少し厚く、上部に行くにしたがいやや厚みを減らし約50センチとなり、笠木が載る。おそらく三井工業高校となった時に、赤れんがの上にモルタルが塗られたが、現在では剥落した部分が相当あって、赤れんが積みが観察できる。
     集治監当時の石垣は、正門に向かって左側に良好に遺存している。砂岩の端整な切石を布積みして築かれている。現存する外塀と石垣は、1996年5月31日に、近代化遺産として、福岡県有形文化財に指定された。敷地内は、あらゆる施設が解体され、残っていないが、地下遺構として通常見えない状態で残っているものがある。2回の発掘調査を通じてそれらの一端が明かされたが、行刑施設ならではのものがある。
     例えば、房舎の周囲には地下に板石を並べて埋め込まれていたが、これなどは獄房の床から土を掘って脱獄するのを防ぐ工夫であると思われた。

    ▼大牟田市上官町4-77▼JR大牟田駅から西鉄バスで三池工業前下車▼外部からの見学は自由

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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