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     歴史・戦跡

    vol.50 黒崎観世音塚古墳

    有明海沿岸部で最大の前方後円墳

     大牟田市の北西部、黒崎山一帯は、従来から舟形石棺を多数出土した所であるが、その多くが不時発見によるもので、出土地点や状況に不明な点が多かった。
    1992年、黒崎山一帯を大牟田市教育委員会で踏査したところ、黒崎公園の最高所、観音堂がある辺りの地形が、前方後円墳状になることが見て取れ、その後、周辺の草刈や測量調査を行ったところ、全長100メートルにも及ぶ前方後円墳であることが判明した。
    1994年から範囲や築造時期の確認調査が進み、墳長97メートル、後円部径68メートル、高さ10メートルにも及び、出土した埴輪かた4世紀末の築造と考えられた。主軸は東西に取り、前方部がほぼ西に向く。この時期では有明海沿岸で最大の前方後円墳である。この古墳が近年まで古墳として意識されたなったのは、その巨大さゆえである。
     墳丘は、本来山の上に、所によっては5メートルにも及ぶ盛り土をおこなって形作られ、後円部には前方部上面よりつながる平坦面が巡り、ここに壺形埴輪や円筒埴輪が並べられていた。また墳丘の裾には土止めとも思われる列石が巡っていた。今は流れ落ちているものの、古墳の斜面には黒崎山北側で採れる結晶片岩を葺いており、当時は古墳全体が輝いていたことだろう。
     墳頂部では比較的扁平な割石を用い、上部を粘土で覆われた主体部の一部が二基確認された。この割石は倉長茶臼塚古墳などでも使用された熊本市西側の金峰山三ノ岳産と考えられている。
     他にも、墳頂部からは三基の経塚も発見された。1号経塚は、掘り込まれた穴の中に青銅製の経筒が収められ、板石で蓋がしてあった。2号経塚が大きく攪乱を受けていたが、冬季の経筒の周りを石で囲んであった。3号経塚は、筒の蓋はすでになく筒身のみ発見された。いずれも銘文などはなかったが、12世紀もそう下らない時期のものと思われる。これまで市内の経塚は岩本経塚しか知られておらず、今回の発見は末法思想の広がりを示す貴重な資料となった。
     黒崎観世音塚古墳は、甘木山の西端に突き出した黒崎山の最高所(標高57メートル)にあり、有明海を一望できる位置にある。周囲からの遠望を意識して選地したことは疑いなく、大型前方後円墳が築かれるにふさわしい場所である。

    ▼大牟田市大字岬、黒崎公園内▼JR大牟田駅から西鉄バス黒崎団地行きで黒崎下車、徒歩10分▼見学自由

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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