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     歴史・戦跡

    vol.53 早鐘眼鏡橋

    多目的に利用されてきた日本初の石造水道橋

     「平塚家旧聞記」には、「元和年中(1615~24)後入国のころまでは、御領内日損多く庶民その憂い言い難し。とろわけ下二部村・片平村毎年損毛、俗に言う“鎌たたず”ばかりの事のみなり。寛永14(1637)丁丑の年は大旱跋にて、その上虫入りて諏訪の前、片平の左右とも一穂も実らず・・・・。百姓の困窮度々に及びける故、喜右衛門早鐘山の谷に堤をつきけり。其年寛文四(1664)年甲辰なり」
     特に1637年、島原・天草の乱の年は大旱跋であり、世情騒乱の中、藩の重役たちの苦悩は大きなものであった。その中でも、片平村・下二部村(現在の諏訪町・天領町付近)の稲の収穫は皆無で、灌漑は急を要した。
     三池藩では、平塚喜右衛門信昌、伊藤源右衛門、屋山三右衛門、福田次右衛門らの家相は早鐘谷を締め切り、ここに堤を築いてその水を灌漑用水に充てることにした。問題は、その水をどのように配水するかであった。用水路の途中には「逆川」(さかさまがわ)といわれる大牟田川の上流がある。この川の上に水を通すとなると、高さ10メートルの堤から流れ出る水の圧力で普通の木樋ではすぐみ毀れてしまう。
     そこて藩では、長崎にある、1634(寛永11)年中国の僧如定によって架けられた石造橋の構想を取り入れ、その設計、測量を行い、実行に移した。
     まず早鐘谷を締め切り、高さ10メートル、幅80メートルのしがらみの堰を築いて、堰がくずれないように松や竹を植えて堤は完成した。その完成した時の記念碑が眼鏡橋のたもとにある。記念碑には「米生荘早鐘 初築堤裁松平塚喜右衛門興行之」、「筑之後刕三池太守従五位立花和泉守源朝臣種長」、「寛文4(1664)甲辰夫正月日」とある。
     1637年の旱跋より27年、幼かった種長も39歳になっていた。堰堤が完成してから1年間、平塚喜右衛門は、雨の日や風の強い日などは、藩内の農民を指揮して徹宵し、堰堤を竹の根がびっしりはりめぐらすまで巡視しつづけた。
     この後いよいよ眼鏡橋の架橋に取りかかるが、半円型にすると橋が高くなって水流が悪く、橋を低くした半円型にすると橋間が狭くなり、下を流れる逆川があふれて洪水の恐れがあるため、円心を2.46メートル下げた3分の1型の眼鏡橋とした。藩独自の土木技術を駆使した、日本で初めての石造水道橋であった。
     時に1674(延宝2)年2月のことであった。堰提の完成から10年、長崎の眼鏡橋架橋から40年目のこの橋は、158分の1の勾配をもって水流を調整しながら下二部村、片平村、大牟田村の水田を潤し、その翌年からこれらの村々の米の収穫高は激増した。またこの橋は、人馬の交通をも兼ね多目的に利用され、水流は生活用水として1889年まで活用された。
     この橋の石材は、大牟田市櫟野地方に産出する阿蘇溶結凝灰岩で構築されているが、これに携わったであろう櫟野石工たちの名は分からない。早鐘堤はゴルフ場となり、眼鏡橋だけが往昔の姿を残しその事跡を伝えてくれる。

    ▼大牟田市早鐘町128▼JR大牟田駅から西鉄バス有明高専行きで早鐘眼鏡橋下車、徒歩1分

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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