駛馬天満宮
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□住所  大牟田市宮原町1丁目191
□電話  0944−52−3538□FAX  0944−51−8822

宮司  田尻 珍哉/禰宜  田尻 千明
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  当神社は、学問の神様で有名である菅原道真公をお祀りしています。 菅原道真公が大宰府に流された時、明鏡に向かい自画像を描かれ、悲嘆にくれている都に残された北の方(奥方)や子息を慰めんために自画像を送られた。その自画像をご神体として、宮原の地に承平三年(933年)十一月二十五日に社殿を造営しました。全国の天満宮の中でも古くから鎮座しております。道真公は、学問の神と慕われており、また人々の幸せを願われる真実の神様としてもご神徳を与えておられます。境内には、県の文化財の石塔が二基祀られています。一度お参りください。 (一月一日午前零時より午前二時まで、美味しい手づくりぜんざいをご用意しています。)

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駛馬天満宮由緒
当神社は、神社帳によると、祭神菅原道真神となっている。
菅原道真公が大宰府に流された時、明鏡に向ひ、自画像を描かれ、悲観くれている
都に残された北の方や子孫を慰めんために、その自画像を送って慰められた。その自画像を御神体としている。
自画像を持って都に遣いをした住吉下野守信晴は、道真公が亡くなられた後、安楽寺に帰り、墓前にいたが、ある夜、道真公が信晴の枕辺に現われて、 『京にある自画像を乞うて御木国米生の荘に社を作り、産土神として祀るべし』と告げられたので、信晴は、そうそうに三毛師方と談合して宮の原の地に、承平三発巳(933)年十一月二十五日に社殿を造営し、又京都に上りて自画像を乞いて御神体として祭られるようになった。そして、三毛師方から当宮に二部八十町を寄付され、又信晴を惣大宮司政所職に任命し、祭務を執り行わせるようになった。
そののち、天正、永禄のころから争乱やまず、天下の群雄が競って土地を争うようになり、戦乱に次ぐ戦乱により、人々は落ち着いて暮らすことができなくなってきた。
このような乱れた世の中において、当宮にも賊が乱入し、旧記や神宝、また明鏡の自画像などを奪われたのである。そして、それらは肥後国南関に安鎮されたのであるが、神明怒りをなして、雷がなりひびき社内光輝したために、神威を恐れ、南関の人
々は本社宮の原へ送り返したということである。
そして、再び当宮において明鏡の自画像を御神体として、祭典をとりおこなうようになったのである。しかるにその後、領主立花氏が宮殿を再建され現在に至っている明治六年三月十四日に郷社に定められた。
当神社も、以前のような大祭はおこなわれていないがそれに変わり、毎年三月と九月の二十四日・二十五日に「鷽替神事」の大祭がおこなわれている。
大宰府天満宮の「鷽替神事」は、万治年間、今より約三百六十年前すでに盛んに行なわれていたとあるから、おそらく相当古い伝統を有するものと思われる。
当神社の「鷽替神事」は、起源不詳ではあるけれども、明治八年、時の神官田尻正
諠により益々盛んになり、その後大祭毎に参拝者が多くなり、各自求めた木鶯を手にして「替えましょ、替えましょ」と呼びあいながら鶯を替えあうのである。その鶯には番号が書かれており、祭り最終日の二十五日の夜十時より、神前において祭典をおこない当り番号を決めるのである。そしてその当り番号を持っていた人が、金の鶯をもらえるわけであり、そして手にした人は、大いに幸運を得ると云われている。
うそ鳥は頸から頬にかけて美しい紅色をほどこし、背や腹の羽は、ねずみ色と尾が黒い小鳥で琴をひいたような美声で有名である。木鷽はこの鳥が木に止った形で、カゴの木を材料とした郷土色豊かな逸品である。
此の由緒については、一年中の嘘を天満宮の神前で鶯と交換して誠に取り替え罪を
滅ぼすためであると云われている。
又、新春に当って開運出世を授かると信じられ求めて、買った木鷽を神棚にお祀りして、除災招福と家運隆盛を祈願するためとも云われている。
たとえ祭礼の中での、一過性の語呂合わせではあっても、つもる一年の嘘言の罪を神の前で悔い改めようというその原点には、素朴な庶民の心がのぞかれる。虚飾に満ちみちた俗を行き抜く現代人は、その罪を悔いもせずただ物質に対する願望だけを強め心の中に不安を抱えると、神の前に安らぎをもとめる。
そこでうそをまことに変えようとしても、木彫りのウソは、あの鋭い目で、すべてをお見通しかもしれない。
宮原石層塔残次(浮殿様五重塔)
藤原助次の遺作として有名であり、現在の形態は、後年の積み替えによる順序転倒でまことに奇妙な形をしているが、もと五重石塔であったことは、銘文によって明らかである。すべて阿蘇溶岩すなわち凝灰岩を材石とし現存する部分は、凸字形の基礎八角形の塔身、笠石二個、扁平四角の塔身、九輪の一部に過ぎず、それに他塔の塔身と思われる筒形のものが混入している。これを原形で下からいえば、(一)基礎、(二)第一層笠石、(三)第一塔身、(四)第三層笠石、(五)第二層塔身、(六)他塔の塔身、(七)九輪の接着したセメント、(八)九輪の一部である。総高二百九cm、混入物を除けば、百六十五cm。この塔の原形を想像すれば、五層上、露盤相輪を頂く、三m以上の堂々たるものであったと思われる。
銘文は基礎の凸出部の正面、側面にあり、正面から右側面にかけ造立主旨および年紀名左側面に和歌銘を持っている。
造立銘は、 奉造立 筑後三毛南郷米生村 天満大自在天神御宝前 五重石塔一基 石造立志者且為奉増和光之利益且為天下安全 国家豊饒 為に親亡魂親亡魂出離生死 頓証菩薩乃至法界平等利益所 奉造立如件貞和刀九月 大願主馬籠住人(以下欠失)
を一八行に、又和歌銘は、キヌシウノツユニアラソウ   ハレナレヤ トヨアシ ワラノ 風ニチリナン ノチノ身ノ カタミノ 石ハチリ世ニモ方らハ シラヌ ヨニハツ タエヨ 南無阿弥陀仏を十行に彫ってある。


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