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     炭鉱

    vol.44 三池港

    閘門を待ち石積岸壁が美しい歴史的港湾

     三池港は現在でも、重要港湾として物流の拠点であり、三池炭鉱閉山後の地域振興に欠かせない主要施設であり、1908年に開港した近代化遺産の宝庫である。
     元々この地は、地形条件も自然条件も港をつくるのには最悪の場所であった。有明海は遠浅で、干満差が大きく、泥性の干潟沖合はるかに広がる海として知られ、大型船が接岸できる港などは望むべくもなかったのである。三池炭鉱で採掘された石炭も、大牟田川の河口で小船に積まれ、曳き船にひかれて、島原半島南端の口ノ津港で大型船に積み替えるといった手間をかけて、運び出されていた。
     この手間とそれに要する経費を省くとともに、三池炭鉱の石炭がなくなった後の大牟田を維持していく礎とすることも見越して、三池の地に大型船が入港して荷役できる港を構築することを着想したのは、三井合名専務理事であった団琢磨氏である。1902年から6年の歳月と、375万6900円の巨費を投じて、三井の専用港、私有港として三井鉱山が建設した港であり、1908年に竣工した。渠内、内港、航路からなり、渠内と内港の間に閘門(水門)が設けられている。
     三池港の、近代化遺産としての価値を構成するもっとも重要な要素は、閘門である。築港当初は、石炭積み込みのための係船岸壁は渠内に設けられていた。渠内の大型船舶が干潮時でも底が着かないようにするには、深さ8.5メートル以上の水位を保つ必要がある。そのため、渠内の海水が引き潮とともに流れ出ないように、観音開きとなる2枚の鋼鉄製の門扉によって締め切る施設が閘門である。
     内港は元来、閘門閉鎖中に渠内に進入できない船舶の潮待ちのために設けられたものであるが、1927年には周囲の埋め立てが進み、新たな貯炭場も整備されたので、内港にも石炭積み込み岸壁が整備され、以後次第に主力は内港に移っていった。
     内港からは沖合約2キロまで堤防を延ばし、航路を設けている。航路の先端には小さな灯台が設けられてある。岸壁は切石積みで造られており、現代のコンクリート岸壁にはない魅力ある景観を現出している。係船岸壁や閘門施設部分は花崗岩の長方形切石を端整に積み上げ、垂直壁を作り出してるが、その他の部分は小振りな凝灰岩の菱形割石で、よく見る城の石垣と同様の反りを持たせながら積み上げている。閘門脇のスルースゲートにワン・ポイントで採用されているれんが積みともあいまって、全体として調和のとれた美しい景色を織りなしている。
     1971年に福岡県の管理となってからも、実質は三井鉱山専用港である状況に変化はなかったが、三池炭鉱閉山後、内港北岸壁の一部とそこに至る道路が県に無常譲渡され、公共埠頭が整備されるに至った。港湾計画も策定され新たな発展が期待されるが、日本近代史を支えた歴史的港湾である点にも配慮された整備が望まれる。特別に公開はしていないが、港周辺の道路などから閘門施設などを見ることはできる。

    ▼大牟田市新港町1▼西鉄大牟田駅から西鉄バスで三池港(島原高速船乗場)下車

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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