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     歴史・戦跡

    vol.52 三池街道

    鮮やかな彩色がいにしえの死者を久遠に見つめる

     「街道」とは、古代から近世にかけて、交通上の重要な道路をさしたもので、官道や公道など大道をいう。江戸時代の全国の主要街道は、幕府の道中奉行管轄の五街道と、主に諸藩が管理する脇街道(脇往還)からなる。三池街道(三池往還)も山陽道、長崎路などどどもに、この脇街道の一つである。
     三池街道の起源ははっきりしないが、すでに鎌倉時代には人々の往来があったという。熊本県玉名市と福岡県柳川市を結んだ主要幹線道路で、地名研究家の故石川保氏は、肥後高瀬(現・玉名市高瀬)から府本(熊本県荒尾市)を経て、県境の岩本番所(現・荒尾市上岩手)までを「高瀬街道」と呼び、この岩本番所から三池の町を通って大字渡瀬の干渡橋までを「三池街道」としている。この岩本番所から干渡橋までの距離は、約1キロを計る。さらに石川氏は、干渡橋から柳河までを「柳河街道」と呼んでいる。
     また、歴史研究家の半田隆夫氏は、『福岡県百科事典』の中で、肥後街道として、久留米ー早津崎ー城島ー榎津ー柳河ー江浦ー三池ー檪野ー熊本のルートを設定している。
     三池街道沿いには、江戸時代を中心に歴史的遺産が多く残っている。肥後と筑後との国境にある関川(諏訪川)には、岩本眼鏡橋(熊本県指定文化財)が架かる。二連のアーチを持つ石橋で、肥後種山(現在の八代郡東陽村)の石工・橋本勘五郎作といわれている。欄干の外側には菊の花の紋章が刻まれ、明治時代初めに架けられたものである。このすぐそばには江戸時代の岩本番所跡がある。1868年の廃止まで、物産の流出、農民の逃亡などを監視したところである。
     現在の大牟田市大字新町付近は、江戸時代の陣屋があった所である。陣屋とは、城を持っていない小藩主の住宅を中心に、藩士の住まい、同上、井戸などを設け、藩の政治を行った所。陣屋の入口には、石造一連の陣屋眼鏡橋が架かっている。陣屋の周りは、幅2メートル程度の掘割がめぐり、今なお残る陣屋への石段が昔を偲ばせる。
     安照寺の山門は、かつて石炭長者として栄華を誇った藤本伝吾邸の門を移築したものである。毎年、普光寺の臥龍梅が見頃となる3月1・2日には、この寺前の往還で三池初市が開催され、多くの人出で賑わった。今は場所を移したが、賑わいは変わらない。
     新町の北側、大字三池一帯は江戸時代の宿場町で、所々に昔の面影が残っている。弥剣神社では、毎年1月15日に「臼(水)かぶり」が行われている。1868年に起こった三池の大火の後、火災よけ行事として始まったもので、今では観光にも一役買っている。
     三池藩は、参勤交代の際は、石川氏の言う「三池街道」、」「柳河街道」を通り、柳川からは、半田氏の言う「柳川街道」(別名「田中道路」ともいう)を通って江戸に上っている。この「柳川街道」は慶長年間(1596~1615年)に筑後領主田中吉政が久留米城と柳川城とを結ぶ軍道として造った道路で、久留米~安武本村~大善寺~小犬塚~大角~下古賀~柳河のルートを通っている。

    ▼道の旧状を残し昔の面影がよく偲ばれるのは、岩本眼鏡橋から北へ約2キロの区間。途中に三池街道がかかっている。普段の人通りは少ない。

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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