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     寺社

    vol.69 熊野神社

    稲荷村の鎮守の社

     祭神は伊弉諾命・伊弉冉命。社伝によれば、その由緒は古く、第27代安閑天皇三(535)年の頃、土地豪族の守護社として創立され、八二五(天長二)年、和歌山県熊野本宮より分霊をうけて祭祀したのがその始まりとある。
     いずれにしても、ここはもと稲荷村といって、「石炭山由来」記にも、「文明元(1469)年丑正月十五日三池郡稲荷村の農夫伝治左衛門と申す夫婦の者あり」といわれているように古くからの地名で、一五九五(文禄四)年十二月の高橋主膳正への宛行い状にも「七百五拾壱石とうか」とある。
     先の由来記は、立花種恭の諮問に応え石炭発見の由来を調査した結果を、三池藩中老格であった森左司馬が書き上げ、献上閲覧後、橋本屋冨五郎に下賜したものである。これを見ると、稲荷村の人々は燃料として稲荷山へ枯枝拾いに行っていたようである。
     久留米瀬ノ下に居を構えた石原為平の「石原家記」によると、「元文三(1738)年三池十日山(稲荷山)、柳川領平野山、石ずみ堀出し」とあるように、すでにこの頃は石炭の採掘が行われていたようである。
     この熊野神社は稲荷村の鎮守の社であり、神社前の鳥居には次の銘文が記されている。
       天保十五(1844)年十一月吉祥日
         施主 藤本伝吾
         稲荷村庄屋 政太郎
         組頭   円 助
               太右衛門
               弥右衛門
               円 次
         百姓代  善 助
               口 助
     藤本伝吾は若い頃長崎に行き、石炭採掘の技術を学んだ。1806(文化三)年、三池藩は領地替えとなり、下手渡へと移封し、その後は天領地となって日田代官の支配するところとなる。石炭採掘については、従来どおりの請負制で藤本伝吾と塚本茂作があたった。
     1816(文化十三)年、三池天領地が柳河藩預かりとなると、石炭採掘の権利はすべて藤本伝吾に与えられた。そしてその販路は中国地方から四国まで拡張される。
     この鳥居は、二代目藤本伝吾有恒が稲荷山石炭採掘の発展と地元の稲荷村の繁栄を祈念して建立したものと思われる。
     しかし、二代目藤本伝吾が逝去して七年目の1852(嘉永五)年、三代目藤本伝吾は周防国の船頭たちと1500両の献金を藩に申し出るが拒否され、石炭山採掘の権利はすべて取り上げられて藩営となり、晩年は経済的にも苦しんだ。
     また、境内には官地払下記念碑があり、この碑には郷土の有名な書家石田霞洞によって、稲荷村庄屋五作の和歌が刻まれている。
      熊野宮は高き村地におはします
       霜月の日に祭り侍らむ     庄屋五作の歌

    ▼大牟田市鳥塚町 ▼JR大牟田駅から西鉄バス三池行きで鳥塚下車 徒歩5分

    このページは大牟田市役所に勤務する主査・主任で構成する互助組織「大牟田市役所主査・主任会」で編集され発刊された「大牟田の宝もの100選」の中から紹介するページです。 発刊時のデータをそのまま引用していますので、問合せ先等に変更がある場合があります。ご確認をお願いいたします。
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